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SF史に残る(べき)ゲームたち:第28回『十三機兵防衛圏』――戦争や災害を、エクスタシーとして描くこと - IGN JAPAN

『十三機兵防衛圏』は、ヴァニラウェアが開発し、アトラスから2019年11月に発売された。マニアックな作品ながら、熱狂的なファンの支持を得ており、日本オタク大賞の大賞に輝くなど、ちょっと変わった評価のされ方をしている(そのオタク大賞で大賞に投票した一人はぼくなので、この言い方は循環的ではありますが)。

個人的には「すごくいい」と思うところと、「ちょっと不徹底な気がする」ところとが混ざる、もやっとした評価だというのが、正直なところだ。それがどういうことなのかを、本論では少し丁寧に書こうと思う。

本作が、戦後の日本で発展させてきたサブカルチャーである、怪獣映画やロボットモノ、SFなどを引き受けつつ、ゲームという新しいメディアで展開させようとした野心作であることは否めない。

渡辺浩弐は、「文学や映画も含めて世界のSFの潮流において『十三機兵防衛圏』は重要な意味を持つ作品だ。ここから伸びる新しい枝を大事にしたいと、大事にしてほしいと思う。現代中国のSF文学のように、あるいは1950年代のフランス映画のように、そのためには批評家の役割も大切だ」(「渡辺浩弐の日々是コージ中」第554回 1月20日「『十三機兵防衛圏』を考えること」)と言っている。本連載の目的は、小説や映画などと比較して、論じられにくいメディアであるゲームを、「SF」の系譜の中で正当に位置づける、ということにあるのだから、本作が扱われるべき作品であることは、確かなのだろう。

謎が謎を呼び、何が起こっているのか分からない、というドラマツルギーでプレイヤーを引っ張っていく形式を採っている本作を、細かく語るのは困難だ、本作の複雑な設定や物語を、筆者が完璧に把握できていもいない。

なので、熱狂的なファンの皆様には物足りないかもしれないが、割と「ざっくり語る」ことを選ぶことにする。つまり、戦後日本のサブカルチャーやSF史の中に本作がどのように位置づけられるのかを重視して論じることで、本作の意義と価値を浮かび上がらせることを本論は目的とする。

そしていつものことながら、容赦のないネタバレを行う。プレイしていない読者は、もしプレイするつもりなら、ここで読むのをやめておいてほしい。論の中でも述べている通り、「謎」に引っ張られて先へ先へと進もうとしている状態になる経験こそが、本作の一番面白いところであり、ネタバレをしてしまうと、それを味わえなくなる可能性が高いからだ。

欲望の満足の、遅延と先送り

 

物語を端的に説明すると、13人の少年少女が主人公で、世界を破滅させる怪獣のようなものが襲撃してくるので、ロボットで迎撃して、世界を救う、というものである。

物語はアドベンチャーパートである「追想編」、ロボットを操って戦うRTSのような「崩壊編」、アーカイブである「究明編」の3つに分かれている。

追想編での登場人物たちは、それぞれ別の時代にいるようである。それぞれ1945年、1985年、2025年、2065年、2105年ごろが舞台になっており、第二次世界大戦や、それぞれの時代での戦争らしきものの前後である。登場人物たちは、このそれぞれの時間移動などを繰り返していく。長編ドラマや週刊連載のマンガのように、「引き」のある短いエピソードを断片的に繰り返しながら、13人の登場人物たちが複雑に絡み合う「事態」を理解していく、というのが大きな流れである。

 

「崩壊編」は、どうやら「最終決戦」であるらしい。「追想編」は、この戦闘がどういう経緯でこうなったのかを知るためのエピソードのようだ。「崩壊編」は「追想編」をクリアする前からプレイ可能で、プレイヤーは、突然の状況や人間関係の中に投げ込まれ、多くの疑問を感じることになる。

本作のキービジュアルが、スカートや服を捲し上げて、太腿や腹にある起動スイッチを露にするものであることが示唆しているが、この「崩壊編」の戦闘は、性的なものと重ねられている。パイロットたちは、操縦する時に裸になっているという設定も、そのような性的な重ね合わせを示唆する。ロボットで戦闘をし過ぎると、搭乗員の脳はオーバーヒートになる。あまりにもたくさんの敵たちを短時間で戦う戦闘の、脳神経が全開になりギュンギュンする感じと、性的なエクスタシーとを重なり合わせるのが、「崩壊編」であろう。もちろんこれは、「追想編」において、異様に複雑な謎解きに頭が追い付かず限界を超えるユーザーの経験と重ね合わされているだろう(いきなりこんなことを言って、引かれるのではないかと心配なのだが、プレイしたユーザーにはきっと伝わるだろうと信じる)。

13人の少年少女たちは、それぞれに初心な片思いをしている。強烈な恋煩いを動機に動くと言っても良い。それは、「今ここ」にある日常を超えた、超越的なものに出会いたいという欲望に近い。性的な欲望と恋愛の渇望が生じ始める思春期の少年少女たちの感情と、戦争や世界の終わりという「非日常」に憧れる気持ちとを重ねている。それが、本作の欲望論としての興味深いところである(ディレクターの神谷盛治がインタビューで名前を挙げる、『超時空要塞マクロス』の影響でもあるだろう。『マクロス』は戦争と恋愛を組み合わせることに特異性があった)。

 

「追想編」のドラマツルギー(プレイヤーの引っ張り方)は「謎」である。「謎」を解き明かしたいと思い、先へ先へとプレイヤーが引っ張られるという物語構造こそゲームの本領であるし、プレイヤーが能動的に断片を探り、それを組み合わせることも、ゲームというメディアならではのナラティヴである。

そして本作は、それをやりすぎなぐらいに、やる。その「やりすぎ」こそが、本作の突出した部分である。半分ぐらいまでプレイしても、これがどういう事態で、どういう話で、どういうジャンルなのかが、全然わからないのだ。13人が、それぞれに関わり合っているらしいのだけれど、ひとりひとりがそれぞれ違うジャンルの物語のようなのだ。

断片的にそれぞれの登場人物の物語に触れ、別の人物の物語に触れながら、全体像を組み立てようとするときに、頭がオーバーヒートして、知的な乱交状態のようなものが生じる。これこそが、本作の妙味である。「欲望」の遅延がひたすら続くという物語の構造と、なかなか成就しない恋と性の欲望の構造を重ね合わせたことが、本作の構造の妙味なのである。

虚構だと思っていたら、現実であった

 

主人公たちは、それぞれにきっかけで、非日常に目覚める。メインに近い主人公である鞍部の場合では、怪獣映画である。その映画は『ジモラ』という名前だが、1954年に公開ということだから、現実で対応している映画として『ゴジラ』を多くの者が連想するだろう。彼は怪獣映画ファンである。あるきっかけで、フィクションの中の出来事だと思っていたそれが、現実であるらしい、と気づく。

別の主人公・網口の場合は、テレビの中のアイドルが話しかけてくる。また別の主人公の南の場合は、E.T.を思わせるBJという小さなロボットと出遭い、匿う。「日常」の中で楽しんでいた「フィクション」が、「(作中の)本当の現実」になる。単なるエンターテイメントであったと思っていたそれが、現実のことであったという驚きと、現実感覚の揺らぎこそが、本作の基調となる感覚である。

この「感覚」は、日本のサブカルチャーを摂取してきたものには、比較的馴染みのある感覚である。小松左京の『復活の日』を読んだり、その映画版を観た者は、コロナウイルスの危機にそれを感じるだろうし、阪神淡路大震災や東日本大震災で『日本沈没』を思い出した者も多かっただろう。「怪獣映画みたい」「パニック映画みたい」とは、非常時に多くの者が口にしてしまう感慨である。

 

なぜそういうことが起こるのか? それは小説家の「予言」や「シミュレーション」の成功だということだけではない。『十三機兵防衛圏』が強く参照している『ゴジラ』(1954)が、そう考えるその根拠となる。

『ゴジラ』の監督の本多猪四郎は、第二次世界大戦に兵士として参加し、敗戦後、帰郷する途中に原子爆弾投下後の惨状を観ている。特撮を担当した円谷英二は、戦時中に国策戦争映画を作っていた。『ゴジラ』は、怪獣映画であるが、実質的には戦争映画であり、彼らの経験が色濃く反映されている。戦後、戦争の直接的な表現がしにくい時期であったので、「ゴジラ」というキャラクターを造形し、パニック映画という「体裁」でそれを表現したのだ。後にゴジラはキャラクターと化し、現実と対応していない記号のような扱いになっていくが、その始まりには、背景に現実の戦争経験があり、その隠喩のような作品であった。

戦後日本のサブカルチャーは、この『ゴジラ』の多大な影響下に生まれた。だから、荒唐無稽な意匠や、「子供向け」「商業主義」「エンターテイメント」の皮を被りながら、裏面に深刻なリアルを忍ばせる、という技巧が発達した。本多猪四郎の大きな影響を受けた宮崎駿の『崖の上のポニョ』などは、子供向けファンタジーの皮を被った、災害映画である。奥尻島の津波などを研究し津波描写を行ったと言われており、裏面には確実に「リアル」がある。最近では新海誠の『天気の子』は、純愛萌えアニメ的な体裁をとりつつ、環境問題のシビアさを背景で描き、リアルで深刻な問題よりも自身の恋愛や気持ちを重視するような現代日本の若者のメンタリティを批評した。

戦後日本のサブカルチャーのうち、良心的な作品は、エンターテイメントとして成立させつつ、その裏に教育的な目的を潜め、「リアル」を伝えようとしてきた。本作の冒頭の、鞍部が『ジモラ』がただのエンターテイメントではなく、現実であったのだと気づくエピソードは、単なる非現実のエンターテイメントではないという戦後日本のサブカルチャーの二重の性質に気づき始めた人の感覚のようである。様々なサブカルチャーやSF作品の引用で出来ている本作は、単に意匠を利用しようとする作品であるというよりは、サブカルチャー論、SF論的な作品なのだ。

現実だと思っていたら、虚構であった

 

そのような「虚構であると思ったら現実」だった感覚の反対に、「現実であると思ったら虚構」だった感覚も描かれる。網口という主人公のエピソードで、彼らが生きている世界が実は半径数十キロしかない、ということが判明する。世界は作り物で、そこに生きている人たちは、それに気づいていない。現実や世界だと思い込んだ、バーチャルリアリティのようなものの中に生きているのだ。

これは、インタビューにもある通り、『メガゾーン23』という作品へのオマージュである。1980年代の日本に生きていると思っていたら、実は宇宙船の中だった、という話が『メガゾーン23』だ。それは、当時の東京で生きる人々の感覚への風刺でもあった。シビアで深刻な「現実」が存在していることを忘れ、平和で豊かな高度消費社会の中で、そこを「現実」と思い込むような浮れた感覚への批判である。そのような時代は、「ポストモダン」と呼ばれる。

およそ1980年代ごろから、サブカルチャーが隠し持っていた真面目さ、教育性、政治的・歴史的な感覚などの「リアル」さを嫌い、もっと軽やかに消費を楽しもうとするモードが主流化してくる。いわゆる「新人類」や「おたく」と呼ばれる人々がそれだ。これは90年代になるが、批評家の吉本隆明は、『新世紀エヴァンゲリオン』や村上龍『五分後の世界』に接して、戦争描写が「リアルさ」とは関係ないものになったことに驚きを発している。そのような断絶が、80年代に起こった。

 

『十三機兵防衛圏』は、このふたつの葛藤、戦後日本のサブカルチャーにおける、「現実」の隠喩である側面と、現実から切り離された「虚構」である側面の葛藤を踏まえつつ、それを複雑化・高度化した作品である、と言えるだろう。

本作で中心となる時代は、1984~5年。画面は、ノスタルジックなタッチと光。八〇年代の「平和で豊かな時代」への追憶を描くが、それは『メガゾーン23』と同じく、作り物でしかない。ゲームというメディアの中なのだから、当然それは作り物である。電子的に再現された、理想郷のような過去に過ぎないのだ。

80年代は、今から考えれば、平和で豊かな時代であった。その時代には核戦争の不安は確かにあった。核戦争に怯えつつも、どこか「でかい一発」に日常が破壊されることへの期待も、サブカルチャーには多く描かれた(一九八四年版『ゴジラ』、大友克洋『AKIRA』、塚本晋也『鉄男』などなど)。そのような「未知」の「破壊」の到来に期待し興奮できるほどに平和だった時代だといえる。日常が虚構的な感覚になったからこそ、「リアル」を求める気持ちが、「破局」を求める衝動になったとも言えるかもしれない。

 

そのような、戦争や終末という「リアル」な「非日常」への憧憬が、恋愛や性愛への希求と重なり合っていることこそが、本作の特徴だということは既に述べた。

しかし、その「虚構」の世界を打ち破る「でかい一発」たる「崩壊編」も、実のところ、「現実」そのものではなく、ゲームなのである。計算資源の都合だと思うが、それは作中の「現実」の上に上書きされるような、抽象的なワイヤーフレームで表現されており、虚構が現実の上に被さっているような感覚を表現している。これらを通じて、ゲームという装置を用いることで、「現実」と「虚構」の多重化した、戦後日本のサブカルチャーにおけるリアリティの複雑な葛藤それ自体を本作は記述しようとしているように見える。

戦争や災害を、エクスタシーとして描くこと

 

「戦争」を、性的な快楽の隠喩で描いたことも、戦後日本のサブカルチャーを検証することに関わっているだろう。日本のサブカルチャーは、過酷な状況を「快」に読み替える装置という側面があった。怪獣映画は、怖いし、悲惨だが、アドレナリンは出るし、興奮するだろう。ホラー映画やパニック映画も同様である。『機動戦士ガンダム』なども、戦争という過酷な状況への興奮を生み出しただろう(富野監督自身は、戦争のリアルの手触りを本作に籠めていると思うが)。特に、ディレクターの神谷盛治が好きだったという『超時空要塞マクロス』は、「記号的」で「快楽的」な戦争の描写に開き直ったような作品である。

自分が直接に経験しない戦争や危機を、私達は楽しみ、快と感じることができる。もちろん、それが倫理的に正しくないことだと知りつつ、そうできる。

日本文化研究者のスーザン・ネイピアは、「津波時代のポニョ」という文章で、『崖の上のポニョ』が東日本大震災の津波と怖ろしく似ていることに驚き、宮崎駿のアニメは、子供たちに「危機」に対する前もっての備えをさせる機能があるのではないかと論じた。大津波と大水害が起こっていても、主人公の男の子は、ポニョというキャラクターがおり、世界全体をファンタジーと感じているので、楽しそうである。

 

戦後日本のサブカルチャーとは、そのような心理的機能を提供する装置ではなかったか。戦争という悲惨と屈辱や、何度も続く理由のない自然災害を、「快」や「エンターテイメント」に変換することで、心理的に受け容れ可能にするための装置ではなかったか。

それは絶えざる自然災害に打ちのめされながら生きてきた日本において、必然的に生まれる文化なのかもしれない。自身を打ちのめす巨大な暴力が何度も続く環境で生きていくために必要な心理状態を作ることが、大衆的無意識に必要とされるのかもしれない。打ちのめされ、痛めつけられ、そこで「覚醒」するという物語の多さは、ある種の日本文化の中にあるマゾヒズムの表れかもしれない。マゾヒズムとは、苦痛を「快」に変える技法なのだから。

危機の中にも快がある。生と死が剥き出しになった状態の生存のエロスがある。そして、生きるために、戦うために、知力を尽くすこと自体のエクスタシーがある。多くの者がそう公言はしないが、その感覚は、文学や映画などで密かに描かれてきた。たとえば坂口安吾の「戦争と一人の女」がそうだ。作者をモデルにした男と女は、空襲が行われている町の中で、ゴロゴロと暮らし、性的な快楽に浸る。空襲と死の予感が、性的な昂奮を生む。空襲で燃え上がる町にも美を感じてしまう。本作もその系譜にある。

『十三機兵防衛圏』は、東日本大震災などでリアルなカタストロフを経験した世界で、改めて、戦後日本サブカルチャーにおける「虚構と現実」の葛藤や、戦争(や災害)を快として描く文化それ自体を、戯れ、再現しつつ検証しようとした作品であるように思える。

決着のつけすぎと、決着のつかなすぎ

 

さて、それらを確認した上で、若干の不満も表明していきたい。ひとつは、本作の「欲望論」の観点から。もうひとつは、「戦後日本サブカルチャー」を再検討する側面において。

確かに、本作は物語を広げ、謎に次ぐ謎で引っ張っていき、知的な乱交状態にさせていくところまでは良かった。何が起こっているのか分からず、混沌としたディオニソス的な興奮状態にプレイヤーを誘うところも良かった。だが、収束のさせ方が良くなかったのではないか。そこにさほど、驚きがなかったのだ。それは、広げた風呂敷に見合う結末ではなかった。

その失敗は、本作の「欲望論」の構造からして、必然的に起きたことなのではないだろうか。本作の製作が難航したとも仄聞するが、この「満足」を「遅延」させるという、マゾヒスティックな、渇望それ自体を目的とするような欲望論からして、「収束」して「結論」が出てしまう事や、答えが出てしまうこと自体が、その本質への裏切りになってしまうのである。しかし、そうすると永遠に完成せず、従って発売することもできなかっただろう。商業的な成功がなければ成立しないジャンルである商業ゲームの条件ゆえに、そうすることはできなかっただろう。

 

であれば、それに相当するような結末の付け方を、思い切って行っても良かった。収束しない、投げっぱなしの、拡散の方が、きっと本作の欲望の構造には合っていただろう。さらなる乱交的な爆発の方向も、ありえたのではないか(と口で言うのは簡単だが、具体的にどんな作品でありえたのかは、全く思いつかない)。

そしてもう一つの不満が、戦後日本のサブカルチャーやSFを引用し、その核となる「虚構と現実」や「快」の問題をの重要なところに触れているのに、それへの決着や、新しい見解がはっきりと打ち出されたとは思いにくいところである。むしろ、迷いがそのまま出てきているかのようだ。

現実の「本当の危機」に現に生きている我々は、この問いを受け止め、どう考えたら良いのだろうか。本作の逡巡を引き受け、私たち自身が答えを出さなければいけないのかもしれない。

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April 06, 2020 at 10:33AM
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