大阪メトロ御堂筋線江坂駅の西側に位置する交差点には,かつてSNKの本社だったビルが建っており,その斜め向かい,現在はコインパーキングとなっている場所では,同社運営のゲームセンター・ネオジオランド江坂が2004年まで営業していた。この付近はまさにSNKの企業城下町だったのだ。
ビルの壁面にSNKのロゴの跡が残っているという話を聞いた筆者は,それを確かめたくなって江坂へと足を運んだ。西日に照らされたビルを見上げると,確かにSNKの3文字がうっすらと浮かび上がっていた。
SNKロゴの跡はあと数年もすれば消えてしまうだろうし,ここにネオジオランドがあったことを知る人も少なくなっていく。まだ名残りある場所に立ち,SNKというゲーム会社がこの地で歩んできた歴史をしっかりと残しておかねばと思う。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,前回に引き続き,SNK関係者に話を聞いている。今回登場いただくのは,SNK新時代を告げる狼煙となった「THE KING OF FIGHTERS XIV」の開発メンバーである小田泰之氏とおぐらえいすけ氏,そしてSNKエンタテインメントの常務執行役員を務める庄田淳一氏である。
“元の鞘”に収まった小田氏とおぐら氏
まずは小田氏にSNK入社の経緯を語ってもらおう。
小田氏は関西在住だったので,就職活動も関西に本社を置く会社が中心になったようだ(当時コナミの本社は神戸にあった)。
「学生の頃は,さすがに『任天堂は凄い』ぐらいは思っていたんですが,そのほかのゲーム会社になると大手も含めてイマイチよく分かっていなかったですね。もちろん,どの会社のゲームも遊んだことはあったので,その程度の知識はありましたが。
ただ,当時は僕も回りの友達や親も,ゲーム業界はうさん臭いと思っていて。『まあ5年食えたらええかな……』ぐらいのつもりでしたね(笑)」
その頃のSNKはすでに「餓狼伝説」「龍虎の拳」などのヒット作を世に送り出していたが,小田氏はそれらのタイトルをプレイしながら,ある“不遜な思い”を抱いていたという。
「あの……今思えば本当に恥ずかしい話なんですが,『オレがやったらもっとええモン作れるのに』と思っていました。SNKのゲームは絵がヘタだと本気で思っていましたね。絶対にオレのほうがうまいって。
入ってみて知ったんですが,いろいろな制限があったわけです。色数であったり,スプライト数であったりと。そういう知識がまったくなかったので,『なんでもっとキレイな絵を描かへんのやろ』と純粋に思っていました」
小田氏はSNK黄金期の開発現場を経験した後,ディンプスへ移り,その後再びSNKへと戻ってきたのだが,そのあたりの詳しい話は後ほど聞かせていただく。
おぐら氏は1996年の入社だ。ドットパターンが描きたくてゲーム会社を志望したという。
おぐら氏は入社後,「餓狼伝説」のチームに配属された。
「『餓狼伝説』シリーズのピークはそれより少し前の時代,『餓狼伝説2』(1992年)とか『餓狼伝説スペシャル』(1993年)のあたりで,社内の人気もどちらかというと『THE KING OF FIGHTERS』の方にシフトしていました。そんな中で『頑張らなあかん』と思ったのを覚えています」
だが,おぐら氏が入社して5年後に,SNKは倒産することになる。
「SNKには会社が倒産する頃までいました。2001年頃,『THE KING OF FIGHTERS 2001』を委託開発していたブレッツァソフトから『(ウチへ)来ぃへんか』と誘われて入社したんです」
ブレッツァソフトはその後サン・アミューズメントに買収され,そのサン・アミューズメントもまたSNKプレイモアに吸収された。
小田氏とおぐら氏は,ともに元の鞘に戻ってきたというわけだ。
“体育会系”だった1990年代のSNK
小田氏とおぐら氏入社した1990年代は,SNK全盛期と位置付けてもいい時期だ。カプコンの「ストリートファイター」や,セガの「バーチャファイター」の向こうを張って,「餓狼伝説」「龍虎の拳」「SAMURAI SPIRITS」「THE KING OF FIGHTERS」といった人気シリーズの作品を次々にヒットさせた,まさに黄金期だった。
小田氏は当時の開発現場をこう振り返る。
「プロジェクトの規模が今よりも小さかったですね。ゲームのボリュームにもよるんですが,基本的に外部発注がなくて,全部内製でした。ハードウェアも自社製でしたから,開発ツールもほとんどが自社で開発したもので,とにかく融通が利いて,利きすぎるくらいでした。
たとえば今ならサーティフィケーションテストやマスター申請とかいうものが入りますが,そういったものがなかったですからね」
他社のプラットフォーム向けにゲームをリリースする場合,事前にプラットフォーマーによるチェックが入る。それを考慮したうえでスケジュールを組まなくてはならないのだが,当時のSNKではそれが必要なかったというわけだ。
「ソフトを量産するために押さえた工場が稼働するときに,製品版ROMを渡さないといけないのは当然なんですが,そこさえ守れていれば,あとの時間配分はいい意味でも悪い意味でも自由でした。納期までにどれだけ詰め込めるかっていう。入社当時はまだ容量制限が厳しかったんですが,1994年か1995年あたりから,それも気にしなくてもいいようになりました」
作り手にとってこの自由さはありがたかっただろうが,会社の事業として考えるとあまりに“無計画”であろう。
「とりあえずのスケジュールや納期は計画に基づいていたと思いたいですけれど,分かりませんね(笑)。だから開発に関しては,好きなようにやらせてもらえた気がします。川崎さんがフラっと現れて『ボツ!』と言うときもありましたけど。
今は計画をきっちり立ててマネージメントしますから,感覚的には全然変わりましたね」
小田氏によると,1990年代のゲーム開発は個人の才能でプロジェクトを引っ張れたという。
「声が行き渡る範囲でゲームが作れましたからね。2Dグラフィックスというのも大きかったです。たとえばサムスピの覇王丸というキャラクターを完成させるのに必要なデザイナーって,2Dなら1人なんですよ。覇王丸担当の人が頑張ってくれたら,グラフィックス的にはいいキャラになるんです。
今は3Dグラフィックスの時代ですから,覇王丸1体を動かすにも,何人もの手を経なくてはいけません。モデルとモーションで2人必要ですし,モデルのギミックを作る人も別に必要ですし,さらにエフェクトの人がいて……と,同じ1キャラでも絵を作るだけで4人のタスクを管理する必要があるんです。彼らの時間に無駄が生じないようにスケジューリングしないといけないので,作り方がまったく違うといいますか,昔の僕らみたいなバカな作り方では絶対に作れません」
おぐら氏の話からも,当時の開発現場の自由な雰囲気がうかがえる。
「当時はやっぱりちょっとユルいっていうか,何でもアリでした。泊まりもあってしんどかったですけど,若かったこともあって個人的には非常に楽しかったです。青臭い,青春の匂いがする思い出になっています。多分,業界全体がそうだったんじゃないかと思います。平均年齢も20代で若くて,部活のノリに近いというか。毎日が文化祭みたいな感じでしたね」
ただ,多くの人が知っている通り,“部活のノリ”は楽しいことだけではない。
「僕が入る直前あたりが一番すごかったらしいんですけど,体育会系の雰囲気も強かったです。だから『上の人は怖い』と感じることがありました」
“一番すごかったらしい”という時期のことを少し小田氏に聞いてみよう。
「暴力とかは一切なかったですよ。ただ,『ゴルゴダ・システム』というものがありました(苦笑)」
ある階段の踊り場が「ゴルゴダの丘」(キリストが処刑された地)と呼ばれていて,へまをやらかした社員は,みんなそこに連れて行かれたという。
「おそらく説教されてたんじゃないですかね(笑)。居眠りしている社員の椅子を,僕の上司が目にも止まらぬ速さで近づいて蹴り飛ばすのを見たことがあります。強調しておきますが,眠っていた人を蹴ったわけではないですよ。ものすごいスピードで近づいて,椅子を蹴って起こしたんです。あまりの早ワザに,『あ,これ,必殺技に使えるな』って思ったくらいでした(笑)」
小田氏によると,そんな雰囲気はある出来事をきっかけに失われていったようだ。
「ちょうど僕の1つ下の代で急激に社員が増えたんです。『餓狼伝説スペシャル』や『真SAMURAI SPIRITS』をリリースした頃,江坂駅前のビルに引っ越したときですね。女性社員が一気に増えたこともあって,会社としてもちゃんとしたんだと思います。社内をパンツ一丁で歩く人が,この頃からいなくなりました(笑)」
これが冒頭で紹介したビルだ。前述したネオジオランドや関連会社のオフィスもできて,江坂はSNKの街となっていった。
そのころのSNKの格闘ゲームを語るなら,魅力的なキャラクターを外すわけにはいかない。ファッションや繰り出す技の数々,そして決めポーズに至るまでの独特なスタイリッシュさはプレイヤーを熱狂させただけでなく,多くのコスプレイヤーを生んだ。
小田氏はキャラクター作りにおいて,常に「物語上の役割」を想定していたという。
「格闘ゲームのキャラクターには,遊びの部分での役割があります。“スタンダード”“スピード”“パワー”“投げ”といったように。そういったバリエーションは誰でも思いつくんですけど,僕らは物語上の役割も常に考えていました。
『このキャラはこういう背景があるからこうしよう』とか,『かわいい女の子を出すなら,お姉さま系も出さないと面白くない』とか。キャラクターにはこだわっていました」
「SAMURAI SPIRITS」「月華の剣士」などは言うまでもないが,それ以外のSNK作品でも,「餓狼伝説」の不知火舞など,和の雰囲気を感じさせるキャラクターが多い。
筆者はてっきり会社の方針としてそういったキャラクター作りをしているのかと思っていたが,そうではなかったようだ。
おぐら氏はこう推測している。
「世界設定を構築するネタを考えている中で拾ったネタが,たまたまそれだったということじゃないでしょうか。江戸時代に詳しいプランナーさんがいたとか,幕末が好きな人がいたとか。会社の戦略や色として,そこを推し出していたわけではなかったと思います。
ただ,当時は格闘ゲームブームで各社からさままざなタイトルが出ていましたから,そこでうまく隙間を突こう,というところはありましたよね」
新旧の力を合わせて開発した「THE KING OF FIGHTERS XIV」
前述したように,小田氏とおぐら氏は一度SNKを退職したが,縁あってSNKに戻り,ともに「THE KING OF FIGHTERS XIV」の開発に携わることになった。その流れを振り返ってもらおう。
小田氏は2000年の初頭にSNKを離れた。
「会社が倒産するちょっと前でした。開発の専務取締役だった西山さん(現ディンプス代表取締役社長の西山隆志氏)と同じ時期です」
ディンプスは西山氏とSNKの開発1部に所属していたメンバーが中心になって創業した会社である。2000年3月にソキアックとして創業し,同年7月にサミー,バンダイ,ソニー・コンピュータエンタテインメント,セガの資本を受けて社名をディンプスに変更し,現在に至る。
小田氏はディンプスでいくつかのゲームタイトル開発に関わり,2014年にSNKに復職した。
転職には勇気がいる。一度辞めた会社に戻る形であっても,そこは変わらないだろう。かつて所属していたとはいえ,再びフィットする保証はない。
事実,SNKに戻った小田氏は,以前と違う雰囲気に戸惑ったようだ。
「当時のSNKは開発をやっている雰囲気があまりなくて,ゲーム会社っぽくなかったです。実際,開発はそれほどやっていなかったようですが……。
なので,『この会社,大丈夫かなぁ』とまず感じました。新しい『KOF』を開発したいから……という話があったので戻ったんですけど,『ホントにここで作れるのか?』と」
小田氏を迎えることになったおぐら氏は当時をこう述懐する。
「その頃のSNKはコンシューマゲームを開発していなくて,ゲームはパチスロのIPを使ったソーシャルゲームのみになっていました。当時の主力商品は『シスタークエスト』などのパチスロで,『KOF』を題材にしたパチスロもあったんです。
小田が戻ってきたときの社内には,格闘ゲームを作れる人間,とくにモデルやモーションデザインができる人はほとんどいなくなっていて,ゼロからのスタートに近いものがありました」
そんな状況だったため,小田氏とおぐら氏は人材探しから始めた。おぐら氏が毎年のように開催していたSNKのOBを中心にした飲み会のネットワークを通じて声をかけるうち,小田氏がSNKに復職した情報も広がり,かつてSNKの格闘ゲームを開発していたメンバーが再び集結したという。そこに新卒の社員が加わり,2015年に入るころには体制が固まって制作が進み,「THE KING OF FIGHTERS XIV」は無事に2016年8月25日の発売までこぎつけた。
当然ながら,小田氏の仕事内容は旧SNK時代とは大きく変わっていた。
「開発の責任者になっちゃったんで,どうしても地味な仕事が多くなりました。エクセルとジーっとにらめっこして,出来上がったものをチェックしたり,スケジュールや予算を管理したりっていう。もう完全な裏方で(笑)
パワーゲイザー(※)にでっかい攻撃判定を付けているときが,一番楽しかったですね」
※「餓狼伝説」シリーズに登場するテリー・ボガードの必殺技
おぐら氏もこう語る。
「旧SNK時代は,ほとんど“ドットの人”でしたが,今は黒木(黒木信幸氏)などがアートディレクターとして立っているので,基本的には彼らの主導で進めています。ただ,彼らと僕の思いが合致していなきゃいけないんで,キャラクターデザインであったり,グラフィックスの方向に関しては,ちょっと話をさせてもらっています」
かつて自分がいた場所で働く若いメンバーを見ると,いろいろ思うことがあるようだ。
「最近入社してきた若い人たちには,SNKのゲームが好きで入ったという人がけっこういます。彼らがプレイヤーだったときの解釈を聞いて,『一般の人には,そう思われていたんだ』とギャップを感じるのが面白いですね。
こっちの単純なミスについて,『このキャラクターにはこういう設定があるから,こうなっているんですよね』などと話しているところに『ちゃうで,それミスや。バグやから』と言ったらショックを受けていたり(笑)」
小田氏も似たような経験があるという。
「ゲーム容量や開発の時間が足らなかったゆえの仕様を,良いように解釈してくれているので『そんなことないで』と言うことがよくあります」
そんな笑い話を披露しつつも,2人は若いメンバーを頼もしく思っているようだ。おぐら氏はこう語った。
「年を取るごとに若い子とのギャップができてきますけど,その人の意見なりデザインなりは,なるべく尊重したいと思っています」
“15年の遅れ”を2年で取り戻す
SNKの格闘ゲームシリーズには長い歴史があるため,登場キャラクターを描いたイラストレーターもその時代によって異なる。
それぞれのイラストにそれぞれの魅力があるわけだが,おぐら氏は,“SNKの絵”のイメージを決定づけたのは森気楼氏(現在はカプコン所属)だろうと話す。
「国内はもちろんですけど,海外でも森気楼さんの絵がSNKの絵だと今でもよく言われます」
「THE KING OF FIGHTERS XIV」の開発では,そんな確固としたイメージを持つキャラクターたちを表現するうえで,大きな挑戦があった。おぐら氏はここで相当悩んだようだ。
「グラフィックスが2Dから3Dになって,作り方がガラっと変わりました。2Dで表現していたキャラクターを3Dにしなきゃいけないとなったときに,情報量をどこまで上げていいのかに戸惑ったんです。
表面の解像度と言えばいいのでしょうか……『KOF』のキャラって,アニメっぽい中にある種のリアルさもあると思うんですよ。2Dをそのまま3Dにしたとして,それで情報が足りるのか,顔の作り方についても,単純にリアルにするのは違うだろうとか,いろいろ考えて。その落としどころに一番悩みましたね」
3Dグラフィックスの採用については小田氏も戸惑いを覚えたようだが,その内容はおぐら氏と大きく違う。
「SNKを出てからは3Dグラフィックスのゲームしか作っていなかったので,2Dか3Dかで議論が起きること自体が疑問でした。
最新のプラットフォームに向けてリリースということは最初に決まっていたので,そこで2Dが出てくることに『なんで?』と」
ここで小田氏が言っている2Dは,ポリゴンで作った板にテクスチャを貼るような,厳密に言えば3Dグラフィックスだが,旧態依然の手法のことだ。
「あのときのSNKは,3Dグラフィックスにどんな技術を詰め込めるかといった議論なんてできる状態ではなかったんです。正直に言えば『開発技術が15年前で止まっているのか』と思ったくらいです。焦りましたね。
結局,その部分では満点を取れなかったと思っています。『THE KING OF FIGHTERS XIV』は高い評価をいただきましたが,グラフィックスの満足度は低めでしたから。『SAMURAI SPIRITS』で,ようやく脱却できたかなという感じです」
SNKの3Dグラフィックスを進化させたのは,“新たな血”だった。
「最新の3Dグラフィックススキルがある人を新たに入れました。一口に3Dグラフィックスと言っても,はやり廃りがあります。初代PlayStationの時代と現在では,モデルの使い方からして違いますから。
トレンドを追いかけられている人,知識とスキルがある人たちのふだんの会話を,チーム内で当たり前にできるようにするのが大変でした。それこそ文化を入れ替えるぐらいの感覚です。急激な変化に拒否感を覚えたり,ストレスを抱えたりした人もいたと思います」
“15年の遅れ”をわずか2年程度で取り返すためには,痛みも伴ったということだろう。それを成し遂げられたのは,開発メンバーの責任感と,コンテンツに対する深い愛情だったのではないだろうか。
世界に広がっていたSNKワールド
SNKのゲームや,そこに登場するキャラクターたちが世界中で愛されていることは前回でも触れたが,おぐら氏もそれを強く感じている。
「最近こそ海外のイベントに招待していただくことも増えましたが,SNKプレイモア時代まではあまりなくて,世界での人気を実感できなかったんです。
いざ行ってみたら,ものすごく熱狂的なんですね。コミュニケーションの取り方も情熱的,直接的で。そこはちょっと驚きましたし,昔の“種まき”が実ったのかなと感じますね」
中東の国でも,おぐら氏は大歓迎されたそうだ。
「クウェートでも,SNKゲームのファンがすごく多かったんですが,その中のひとりがMVS筐体を引っ張ってきて『これにサインしてくれ』って。さすが産油国って思っちゃいました(笑)。レアなカートリッジとかもいっぱい持っているんですよ。『餓狼 MARK OF THE WOLVES』とか」
小田氏もまた,同じような体験をしている。
「僕もSNKに戻ってからは,『THE KING OF FIGHTERS XIV』や『SAMURAI SPIRITS』の販促活動で,いろいろな国に行っていますが,初期SNKタイトルの発売当時から好きだったという人の数や熱量は凄いですね。ヨーロッパ,アメリカ,中国もそうです。南米にはまだ行ったことがないんですが」
海外の熱狂ぶりを目の当たりにして,思うところも多かったようだ。
「当時の海外での販売本数などを正確に把握しているわけではないのですが,あの熱量を見ると,それぞれの国で,あの当時SNKのゲームをしっかり行き渡らせることはできていたんだろうか……と考えましたね。ゲームの開発と同じくらい,マーケティングも重要なんだと感じました」
いくら面白いゲームを作っても,届かなかったら意味がない。もちろん現在の小田氏は,そのためのさまざまな施策を考えている。
「マーケットが以前よりも大きくなっている分,やらないといけないことが増えて,開発費もどんどん膨れ上がっています。その開発費を一瞬で回収できればいいのですが,当然,それなりの時間がかかるので,その間はダウンロードコンテンツをリリースしたり,話題を提供したりでプレイヤーのみなさんにモチベーションを維持していただかないといけなくなっているんです。昔とはまったく感覚が違いますね」
おぐら氏も同感のようだ。
「NEOGEOの時代だと,製品版のROMを焼いたら基本的に作業はおしまい,あとは買ってもらえるかどうか……といった感じでしたが,今は発売後も調整ができますから。大会などに対してのケアもしなきゃいけないですしね。
ただ,そういう意味だと,ファンのみなさんとの距離は近くなっていると思います」
筆者は2019年7月に台湾の台北市で開催された台北サマーゲームショウの会場で,NEOGEO World Tour 2の模様を観戦した。日本を含むアジアを中心とした多くの国から選手が参加し,World Tourの名にふさわしい大会となっていたが,これを実現したのは,コンテンツの持つポテンシャルはもちろん,ゲームやコミュニティのネットワーク化だった。
小田氏は,ゲームがオンラインでつながることによって新しい遊び方が生まれ,そのなかでコミュニティも形成されていったと語った。
おぐら氏も,世界中から反応が返ってくる現在の状況を,かつて行っていたSNK直営ゲームセンターでのロケーションテストと比較すると,隔日の感を覚えるという。
eスポーツが盛り上がる中,対戦格闘ゲームの先頭集団に追いついた感がある最近のSNKだが,おぐら氏は意外にも,格闘ゲームにこだわるつもりはないという。
「格闘ゲームを作るのは全然やぶさかではないですけど,ほかのジャンルに挑戦させていただけるのであれば,それもやっていきたいですね」
そこは小田氏も同じようだ。
「若いときは格ゲーばかり作っていた反動で嫌いになって(笑),新しいことをやろうといろいろ経験した後で,もう一度格ゲーをやるかとSNKに戻ったんです。
そのおかげで妙に達観しているところもあるんですけど,どんなジャンルのゲームでも,十分作り込ませてもらえたらありがたいというか,嬉しいですね。
いろいろジャンルのゲームを作れるようにして,1年で何本もタイトルを出したいと思っています。今のペースだと1年に1本出るか出ないかぐらいなので。
リメイクのオファーや,ファンからの要望も山のようにありますし,既存IPもちゃんとやっていきます。ただ,それに全部応えていると,新しいものを作れないというジレンマがあるんですよね」
小田氏は笑顔で語った。応えきれないほどのオファーや要望があることは,開発者冥利に尽きるのだ。
新生SNKのキーマンが語る今後の展開
さて,ここからはSNKエンタテインメントの取締役COOを務める庄田氏に,現在のSNKの国内展開やこれからについて語ってもらうのだが,その前に,氏とSNKの出会いを聞いてみた。
「横浜出身の大阪育ちで,小中学生時代はゲームをよくやっていました。家庭用ゲームは『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』,それ以外にもいろいろなタイトルをやっていました。アーケードゲームだと『ストリートファイターII』『THE KING OF FIGHTERS』『餓狼伝説』とか,とにかくゲームが好きでしたね。
その中でもやはりSNKは特別で,初代『餓狼伝説』が世代的にもマッチしていたので,一番やり込んだと思います。『メタルスラッグ』『サムライスピリッツ』もそうですね」
SNKが特別な存在になったのはなぜだろうか。
「タイトルに加えて,MVS筐体の印象がものすごく強かったからです。
小中学生時代に駄菓子屋やおもちゃ屋,レジャースポットなどに行くと,必ず設置されていました。今から考えると,生活の中で当然のように筐体があったので,無意識に印象づけられていたんだと思います。そこが決定的だったんじゃないでしょうか」
MSVの筐体にはいくつか種類があるが,庄田氏が指しているのは,後に「NEOGEO mini」のモチーフにもなったタイプだ。
「昨年全世界で『NEOGEO mini』を発売しまして,国内だけでも20万台を突破しました。発表直後からさまざまなメディアで取り上げられ,予約販売ではわずか1時間半で完売するなど,大きな話題となりました。その反応を見ても,MVS筐体は単なるアーケード筐体ではなく,1個の確立されたコンテンツであることを改めて認識しました」
庄田氏は2005年にSNK(当時の社名はSNKプレイモア)へ入社したが,志望動機はゲーム開発ではなかったという。
「幼少の頃からゲームやレジャーが好きだったので,エンタメ業界に携わりたいという思いがあり,その中でゲーム・パチスロ業界を選択しました。
元々は,コンテンツやそれに付随する業務,マーケティング関連職を志望していましたが,当時のSNKの事業はパチスロとゲームのふたつに分かれていまして,入社後最初の部署は,メインの事業だったパチスロに関わる業務管理部でした」
その後,庄田氏はほどなくして業務管理部からパチスロ独特の申請に携わる部署や開発管理の部署へ異動になったが,これには理由があった。
「ある時上司から,将来的に会社全体の業務を把握できるよう,一定期間で異動させると言われました。
一つの部署にいるのが早くて半年,最長でも2年ぐらいでしたね。基本的に,原理原則の理解,業務の取得,問題定義と改善施策を実施して,ある程度最適化されれば次の部署へ配属というシステムで育成されました。
当初希望していた職種とは異なりましたが,配属先で成果を出していけば,最終的には自分のやりたい仕事に近づけるとイメージしていました。ミッションは会社が決めることで,個人の好みで選べるものではありませんので」
仕事を覚えたと思ったらまた別の仕事……という,なかなか大変そうな働き方に思えるが,これは庄田氏にとって貴重な経験になったようだ。
「毎日,緊張感がある状態で仕事量も多く,苦しい時期もありましたが,今思えば非常にいい経験でしたし,その中で見えてくるものも多くありました。
クリエイティブな職制とは異なり,一つの部署に長く居続けることは必ずしも生産的ではありません。生産性と要領は異なります。さまざまな部署や業務を取得してきたからこそ,人が発言する内容や判断する視点によって,その人が今までどのような姿勢で,どのような業務に取り組んできたか,ある程度把握できます。
人それぞれの許容範囲を見極めつつではありますが,若いうちに苦労した分は,近い将来,自分の財産となって返ってくることを社員教育のポリシーとしています」
庄田氏が入社した2005年ごろのSNKは,旧SNKの親会社であったアルゼに対して起こした知的財産をめぐる損害賠償請求裁判のさなかにあり,アーケード基板の自社開発を諦め,他社のプラットフォーム(セガやサミーが開発した「ATOMISWAVE」やタイトーの「Type X」)に向けた展開を始めたばかりだった。いわば“激動の時代”なのだが,社内にいた庄田氏自身には,そのような印象はなかったという。
「アルゼとの件は,入社してから徐々に理解していきましたが,特に社内で情報共有などもされていなかったです。会社の配慮でしょうし,もし逐一知らされていたら,みんな不安になっていたかもしれないですね」
庄田氏はその後経営企画室に配属され,著作権や商標,特許といった知的財産権に関する業務を担当したが,その時期に中国のレド・ミレニアム社がSNKを買収する案件が動いていた。
自分の所属する会社が買収されるというただならぬ事態を,庄田氏はどのように見ていたのだろうか。
「私はレド社を知らなったので,初報を聞いたときは驚きましたが,実情を理解していくうちに期待感が生まれました。
当時の日本のアプリマーケットでは,あまり海外の企業が目立っていませんでしたが,中国のアプリゲームは飛び抜けて勢いがあって,将来的に彼らがゲームマーケットを席巻するのがイメージできる状況でした。レド社は,そんな中国で成功しているわけで,むしろいい結果につながるんじゃないかと思うようになりました。
実際,日本のアプリが海外マーケットで目立った結果を残せない一方で,中国のアプリは日本のマーケットで着実に成功していったと思います」
レド・ミレニアムは2015年8月に川崎夫妻の所有株を取得し,SNKは同社の傘下に入った。
筆者の個人的な感想だが,これ以降,SNKから発信される情報が増えていったように思う。それが近年の躍進につながっているのなら,経営が会社を変えたひとつの事例ではないだろうか。
SNKはまさに「The Future Is Now」
レド・ミレニアムの傘下に入った翌年,社名が「SNKプレイモア」から現在の「SNK」へと変更された。旧SNK倒産から15年越しでの復活を遂げた理由を,庄田氏はこう語る。
「どのように表現すべきか……ここまで人から愛される社名って,なかなかないと思うんですよね。『SNK』の3文字,社名もコンテンツであり,ブランドなんですよ。だから,余計なものを付けるより,SNK」
庄田氏が取締役を務めるSNKエンタテインメントは,SNKが保有するIPを使ったライセンス事業を展開している。
「ライセンス事業への注力が会社の方針であり,ここが今のSNKを勢いづけている一番大きな要因だと思います。以前のSNKは,日本国内でのライセンス展開には消極的でしたので,SNKエンタテインメントを日本国内のライセンス会社のシンボルとして設立しました。それが2016年の2月ですから,気づけば4年めですね。
会社設立直後は,ライセンス事業を通して,SNKコンテンツの再認知と盛り上げに注力しました」
ちょうど「THE KING OF FIGHTERS XIV」がリリースされた時期と重なったこともあり,同作のキャラクターがスマホアプリに登場するといったコラボのオファーが多かったという。
その中で庄田氏は,他社がSNKに抱いていたイメージを把握していったようだ。
「どうも“武闘派”というか,近寄りがたい雰囲気があったようで(笑)。なので,第一弾の事業展開としては,事業紹介のための企業訪問を積極的に行いました」
その結果「SNKとは取引できない」という他社の思い込みがなくなり,協業の問い合わせが増えていったそうだ。
「『前からSNKさんと取り引きしたかったんです』『お願いしたかったんですけど,声をかけづらくて』『どこに連絡すればいいのか分からなかったので』みたいな感じでした」
そのような事例のなかで庄田氏の印象に残っているのは,「グランブルーファンタジー」とのコラボだという。
「当時プロデューサーだった春田さん(春田康一氏)と,2016年8月頃に初めてお会いしました。多忙にも関わらず丁寧に対応していただいて,さまざまな事業の話をご紹介したところ,後日グラブルの世界観と『サムライスピリッツ』の親和性から,コラボを提案いただいたんです。
実際にコラボイベントを開催したのは2017年の1月で,『SAMURAI SPIRITS』も発表前でしたが,このお話をきっかけに『サムスピ』が活性化していったと思っています」
こういった協業によってSNKコンテンツはマーケット内で再認知されていき,それが新たな協業を呼んだ。
「さらに一歩踏み込んだ話が来るようになって,ゲーム分野だけでなく,飲料メーカーのダイドーさんの自動販売機と連動するアプリ『THE KING OF FIGHTERS D〜DyDo Smile STAND〜』などが実現しました」
創業から1年が経過し,ライセンス事業が軌道に乗ったところで,SNKエンタテインメントは新たな事業に乗り出した。
「新規事業の一環として,マーチャンダイジング事業に着手しました。
ゲームから離れているときも,ユーザーがキャラクタに寄り添えて,満足度を高められるのがグッズ等の商品だと考えています。だからこそ,マーチャンダイジングはコンテンツにとって非常に重要な役割を担うと思っています。
今までのSNKは,ライセンス事業で商品化を展開していましたが,自社展開のノウハウがなく,経験がある社員もいなかったので,本当に手探りでの立ち上げでしたね。
商品企画からショップのサイト構築まで,苦労しましたが,無事2017年9月に『SNKオンラインショップ』をオープンすることができました」
オープンから1か月ほど経つと,全国から反応が返ってきた。
「ライセンス事業のときと同じように,流通業界で『SNKがショップを開設した!』という情報が瞬く間に広まり,東急ハンズさん,ロフトさんなどから次々とオファーをいただきました。
特に印象的だったのは,東急ハンズさんとの『40thコラボ』でした。SNKは2018年は創業40周年(※)だったので,同じ40周年だったハンズさんから『一緒に何かできませんか』と声をかけていただいたんです。
せっかくなのでもっと踏み込んだことをしましょう! と生まれたのが,東急ハンズのコーポレートカラーに身を包んだSNKキャラクターのタイアップでした。
SNKの強みはオンライン分野,東急ハンズさんの強みはオフライン分野であり,双方の強い分野にリーチすることで,新規のマーケットやユーザーの獲得につながったと思います」
※1973年ではなく,1978年の株式会社 新日本企画設立を創業としている
庄田氏は,こういった協業を進める中で,SNKのキャラクターの魅力を改めて感じたようだ。
「格闘ゲームの中でも,SNKのキャラクターは歴史が長く,多くのファンがついています。例えば麻宮アテナという1キャラでも,KOFシリーズのファンや,1987年のアーケードゲーム『サイコソルジャー』からのファンなど,多種多様ですからね」
オフラインでのコラボは飲食店でも実現した。東京スカイツリータウン内にある東京ソラマチでのコラボカフェだ。年末年始にキャラクターアートをあしらったメニューが提供されたこのカフェは,それまでSNKにはまったくノウハウがなかった飲食分野だけに,いい経験となったようだ。
そして現在のSNKエンタテインメントは,さらなる新規事業に力を入れている。
「これまでは,あくまで一次コンテンツの展開でしたが,現在は二次コンテンツでのブランディングに着手しています。
2019年7月に発表した『THE KING OF FIGHTERS for GIRLS』は,名前からも想像できるように乙女ゲー,要はキャラクターをアイドル化したものです。発表時にはトレンドランキングで1位を獲得したり,動画の再生回数が2日経たないうちに100万回を超えたり,ツイッターの「いいね」が1万を超えたりと,かなりバズりました」
KADOKAWAが2019年に立ち上げたラノベレーベル「ドラゴンノベルス」からは,「THE KING OF FANTASY 八神庵の異世界無双 月を見るたび思い出せ!」が出版されている。
「八神庵が異世界に転生して,ドラゴンやゴブリンと戦う……というスピオンオフ小説ですが,こちらも非常に好評で,重版がかかって,続編とコミック化が進んでいます」
乙女ゲーにラノベと,昨今の流行に乗ったかのようにも思えるが,こういったキャラクターの活用は,本来SNKが得意とするところでもあった。経営体制や社内の雰囲気が変わった結果,その血が蘇った,と見た方が正しいようだ。
「たとえば1990年代に企画された,『KOF』のキャラクターがバンドを組んだという設定の『バンド・オブ・ファイターズ』や,SNKの女性キャラクターを集めた恋愛シミュレーションゲームで,携帯電話端末やニンテンドーDS向けにリリースされた『デイズオブメモリーズ』など,もともとSNKのキャラクターはさまざまななジャンルで活躍していました。
格闘ジャンルという枠を飛び出し,新しいマーケットやユーザーにリーチする展開は非常に重要です。同時にその戦略が実現できるのも,各キャラクターにファンがついているSNKのキャラクターだからこそだと確信しています」
庄田氏は今後も新たな展開を打ち出していくつもりだ。
「コンテンツというものは,一朝一夕で生まれるものではありません。マーケットへの情報発信やユーザーの満足度を高めていく中で,少しずつ蓄積されていくものだと考えています。
大切なことは,情報を配信し続けることです。SNKは,受け継がれてきたゲームを現代に合わせて昇華し,SNKエンタテインメントは,コンテンツという幹を大樹に育てる仕掛けを展開していきたいと考えています」
現場と経営という両輪が支える今のSNKを3人のキーマンに語ってもらった。
プレイヤーの視点だと,SNKが海外資本の傘下となったことなどについては,複雑な気持ちもあるかもしれない。
だが,旧SNKで蒔かれた種は,今花開いている。そして現在のSNKは,未来を見据えてまた種を蒔いているのだ。まさに,「The Future Is Now」。蒔かれた種が大輪の花を咲かせるときを,楽しみにしたい。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
(C)SNK CORPORATION ALL RIGHTS RESERVED.
参考文献:
「それは『ポン』から始まった」赤木真澄
「アルゼ王国の闇」松岡利康
協力:
仁志睦
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December 11, 2019 at 10:00PM
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ビデオゲームの語り部たち 第16部:伝統に新たな力を加えて再び飛躍するSNK。未来は今作られている - 4Gamer.net
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